HAYASHI Lab.

IIS, the University of Tokyo
東京大学生産技術研究所
林憲吾研究室

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コラム「仏教から考える都市」

林憲吾(東京大学生産技術研究所)

 

都市は都市だけでは生きられない。

食料の外部依存性をもとに、これまで私は都市をそう定義してきた。すると、ふと、私には、ある宗教が突然に都市のアナロジーに思えたのである。仏教である。

仏教は基本的に出家と在家からなる。例えば、上座部仏教やチベット仏教では、サンガと呼ばれる出家集団と在家に分かれ、サンガには出家者独自の厳しい戒律が課される。もちろん仏教は多様であり、日本はこの限りではないのだが、ここで私が注目したいのは、それらの仏教におけるサンガと在家の関係である。なぜなら、まるでそれは都市と非都市の関係だからだ。

というのも、サンガは生産活動を禁じられている。

“サンガの特徴は、いろいろなルールがあるんだけれど、 ひと口で言うと、 ビジネスをやってはいけないということなんです。 お金に触ってはいけない。 だから商業ができない。土を掘ってはいけないし、水をまいてもいけない。だから農業ができない。サーヴィス産業に就くこともできない。つまりビジネス(生産活動)が一切できない、非生産階級になるんです。” (橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教(Kindle版)』株式会社サンガ、2013年、 Kindle の位置No.588-592)

つまりサンガは、商業もできなければ、農業もできない。食料を自ら生産できない存在なのだ。言い換えれば、そもそもサンガだけでは生きられない。では、サンガは一体誰から食料を手に入れるのか。もちろん在家である。さらにいえば、利益を得るような売買がサンガには禁じられているので、在家からの布施によって手に入れる。

この関係は、私の定義する都市と非都市の関係にぴったりではないか。在家という非都市に、食料を依存するサンガという都市。しかも、サンガの生きる糧は、実際の都市がやっているような貨幣による等価交換で得てはない。在家の贈与からなる。なかなかハードな依存である。

このように、サンガは在家なしでは生きていくことができない。しかも、布施を得ておこなうその修行は、比丘(僧)自らの悟りのためでしかない。にも関わらず、サンガは在家から敬意を払われ、在家は布施をおこなう。

もちろん、布施をした在家者にもメリットはある。布施によって功徳を積める。とはいえ、門外漢の私には、「在家の暴動、起きないの?」とすら疑問が沸く。やや無礼な表現だが、在家という非都市に依存して、自己利益をあげる現代都市そのものに、サンガは映らないか。一体なぜ、この関係は破綻なく存続できているのだろうか。不思議である。

だが、逆にいえば、サンガと在家にまつわるこの問いは、都市と非都市の理想の関係を考えるヒントになりはしないか。もし仮に、地球を破綻させてしまい兼ねない無遠慮な都市のような存在が本当にサンガなら、その関係はとっくに破綻しているはずだ。一方的な依存や搾取だったなら、仏教の長い歴史をくぐり抜けてはいない。布施をするのは、サンガがそれに値するからだろう。とすれば、サンガと在家のこの関係を頼りに、都市の倫理のようなものが見えてこないだろうか。そんなことを思うに至った。

しかし、こんな思い付きを実行できるほど、私は仏教について詳しくない。いや、無知である。そこで思い切って知り合いに講義をお願いしてみた。ダライ・ラマ14世研究者の辻村優英さんである。

在家ファースト

辻村さんによれば、在家とのトラブルはサンガにとってやはり死活問題だという。仏教には「律」という釈迦が制定した規則がある。これは出家者が引き起こしたトラブルをもとにつくられている。二度とそのトラブルを起こさないための、ある種のトラブル・シューティング集だという。その中には、在家とのトラブルにより制定された規則も数多く含まれるそうだ。

例えば、「布施をしてくれようとしている分以上の衣を、自らの欲望を満たすために布施者に乞うてはならない」という規則があるそうだ。これは、ある比丘が布施で得た布に満足せず、布施をしてくれた在家者に、もっとよい布をくれ、と言ったのが発端だという。なんとも厚かましい…。

その要求に、「よい布を持っていません」と在家者は答えたそうだ。すると、比丘は、「よい布を買えばいいじゃないか」と言う…。

「いえいえ、買うお金がありません」と応じると、「付けで買えばいいじゃないか」と比丘は言う。いやはや不良青年である。

そんなこんなで、この在家者は、高価な布を商人から付けで購入して布施してしまう。だが、この在家者は貧しい。いつまで経っても支払いをおこなえない。結局、業を煮やした商人によって、罰として路上に立たされてしまう。

そこを通りかかった在家者の友人が、何事かと驚き、質問し、事情を知る。すると、「釈迦の弟子はなんと貪欲で満足することを知らないのか!」とひどく憤ったという。当然である…。そして、このクレームが釈迦の耳に入り、上記の規則が制定された。

この事例のように、在家のクレーム対応で生まれた規則はたくさんあるらしい。出家の条件には、子供をすぐに出家させてはならないとか、使用人を出家させてはならないとか色々あるようだが、これらの規則の多くも在家クレームが絡んでいるそうだ。ひとつひとつは紹介できないが、辻村さんから繰り出される制定にまつわるエピソードを聞くと、コント集のようですらあり滑稽である。

ここでのポイントは、釈迦はかなり在家の言うことを聞く、である。在家ファーストといっていい。在家の怒りを買うことや在家の生活秩序を乱すことはなるべく回避する。在家にとって布施をしたくない存在にならないよう注意を払っている。在家者から見て、出家者はどのような存在であらねばならないか。そうした思考が内在している。サンガと在家の関係性に留意しているのだ。

もちろん、在家はサンガに一方的に依存されているわけではない。そもそもなぜ布施をするかといえば、在家者が自らの功徳を積むためである。布施は、所有物を放棄して、しがらみを断ち切る行為でもある。それは、サンガを支援するためではなく、自らが悟りに近づくための行為である。しかし、それには布施を受け取る人が不可欠である。

ではそのとき、どんな人になら私たちは布施をしたいだろうか。自分たちと同じ人たちよりも、自分たちとは異なり、世俗を離れ、生存をかけて修行をする高貴な人たちに、布施をしたくはないだろうか。サンガのある意味での生存戦略がそこにある、と辻村さんはいう。そして、その高貴さは、生産活動をしないという、在家にはない環境にあえて身を置くからこそ生まれているとはいえないか。異なる環境に身を置いて自分とは異なる生き方をしていることに、敬意が生まれる。サンガと在家の間にある非対称性が、絶妙な相互依存関係を生み出している。

都市の律

サンガはサンガのみでは成立しない。だからこそというべきか、サンガの存在様態は、在家という鏡に映る自らの姿を、とても意識しているように見える。決して独善的ではない。

これは都市と非都市の関係を考える上で示唆的である。都市はいま、非都市を鏡に自らの姿を確認できているだろうか。非都市のクレームに耳を傾けられているだろうか。非都市の生活秩序をかき乱すことになっていないだろうか。

と同時に、都市は非都市との非対称性を十分に活かしきれているかも確認しなければならない。都市は都市のみでは生きられない。であればこその魅力や役割を、都市は発揮できているだろうか。都市ならではの懸命な努力があるだろうか。そして、それは非都市から敬意を得るものだろうか。ただ、楽園のように見せて、非都市を幻惑していないだろうか(やたらめった在家から出家者を生み出し、早々に幻滅して還俗が続出するような…)。

出家と在家の区分とは異なり、都市と非都市は明確に二分できるわけではない。ことはそんなに単純ではない。だが、都市と自覚する場所や、そこに暮らす人々は少なくとも存在する。そのような場所や人は、①自らが依存する先の生活秩序を乱していないか、②その場所から敬意を得られる都市独自の振る舞いを生み出せているか、それら二つを非都市を鏡に自らに問わねばならない。自給自足の閉じたコミューンではなく、相互依存の開いたネットワーク社会をつくるのであれば、仮にその答えがノーならば、いまこそ「都市の律」をつくらねばならない。

最後に1点、辻村さんから教えていただいたサンガの律について触れたい。律には、在家者とのトラブルで生まれたもの以外に、出家者内部のトラブル、そして、人間以外とのトラブルから制定されたものもあるという。

例えば、樹木。樹木の伐採に関して、「樹木に住まう神に移動してもらってから、樹木を伐採しなければならない」という律があるそうだ。この規則は、ある比丘が僧院建設のために大きな樹木を伐ったことが発端で生まれた。その樹木には神が住んでいたのだが、伐採によって住まいを奪われてしまったという。そこで、その神は釈迦のもとに行き、こう尋ねたそうである。

「あなたの弟子である比丘が樹木を伐ってしまい、私の住む処がなくなったのですが、どうすればいいですか?」と。

これに対して釈迦は、別の大樹の神に頼んでその神を受け入れてもらったという。その上で、上記の規則を比丘たちに伝えた。何という心配り。樹木の神のクレームにも釈迦は応えたのである。

いま私たちが生きる都市にも、こうした律が必要ではないだろうか。人間だけではなく、それ以外のものたちすら鏡にして、「都市の律」はつくられねばならない。都市も非都市も、そもそも地球環境に依存しきっているのだから。

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