コラム「集合的手仕事としての建築」
神輿と建築の共通点
前回のコラムで神輿の重さについて書いた。小学生と神輿をつくり、それを担いだ体験から、神輿の「重くてデカい」という単純な物質性に、人々の協調性を誘発し、共同体の連帯を促す効果が宿るのではないか、そう述べた。
この「重くてデカい」という性質は、私が専門とする建築にも共通する。そのことを私は、学生時代に藤森建築に触れて、ありありと実感した。
建築史家であり、建築家でもある藤森照信さんの建物は、建築分野でなくともご存じの方は多いだろう。地上数メートルの樹上の茶室「高過庵」や屋根一面に芝生が葺かれた「ラ コリーナ近江八幡」の店舗など、有名なものは数多い。
藤森建築は、外観や内観を主に自然素材、あるいは植物という自然そのもので仕上げることを特徴とする。工業製品ももちろん使うが、モルタルに藁を混ぜて土壁に見せたり、銅板やトタン板など、製品というより原材料に近い金属板で、風化して変色するのを期待したりする。
だが、建築自体は決してプリミティブにできているわけではない。とくに躯体はきわめて現代的な材料や構法が使われている。「科学技術を自然で包む」とは、よく藤森さんが用いる表現だが、伝統的な建築のつくり方ともかけ離れている。
とは言うものの、藤森建築を訪れた時に感じるどこかプリミティブな感覚を下支えするプリミティブさが、建設プロセスにないわけではない。それが、職人以外の手が仕上げに加わることだ。
藤森建築は、外観や内観の仕上げに画一さではなく、自然な不均質さを求める。そのため、漆喰塗りや土壁塗り、銅板加工などに、縄文建築団と呼ばれる友人たち、施主、学生たちが参加する。同じものを狂いなく精度高くつくれてしまうのが職人なら、素人の技術は否が応でもばらつきが生まれるからだ。手の個性が必ず残ってしまう。
そんなこともあって、学生時代には建設作業に駆り出されたが、現場に行って思うのは、たとえ小さいと言われる茶室であっても、やはり建築は大きく、重たいということだ。
仕上げにしても、一生懸命に漆喰を塗ったと思っても、全体からすればそれは僅かでしかない。躯体づくりを手伝ったのなら、たとえ木材でもその重さは骨身に応える。建築とは一人を超えたところにあると感じざるを得ない。
人の手の集合が建築を支えている。そういう意味で建築は、色々な人との協働を生む「集合的手仕事」である。
スンバの家屋
例えば、インドネシアの島々に足を運ぶと、建築がまさに集合的手仕事で成り立っていることがよくわかる。
インドネシアは大小1万を超える島々からなるが、その島々の中には、各地の民族によるユニークな造形をした伝統的な木造家屋がある。とりわけバリ以東の島々に多く、スンバ島もそのひとつである。
スンバ島は、巨大なとんがり屋根をした高床式の木造家屋が有名である。伝統的集落に行くと、とんがり屋根の家屋が支石墓を取り囲んで建ち並ぶのに出会う。その独特な造形をした屋根裏は、マラプと呼ばれる父系氏族の始祖や祖霊を祀る空間であり、人間のための空間ではない。人間の生活はマラプの下で営まれる。
この伝統家屋は専門の大工が建てるのではない。村の住民の相互扶助によって建てられる。木材の切り出し、躯体の構築、チガヤの屋根葺きなど、住民たちが大工となって全ての工程を行う。と言っても、住民が高度な大工技術を備えているということではなく、その構法はわずかな道具を使ったプリミティブなものである。
家屋の建設で最も重視される工程は、とんがり屋根をつくることである。人々の生活空間よりも先に、祖霊のための屋根裏が建設されるのである。建設の過程には儀礼が数々あるが、屋根が姿を現す棟上げも儀礼を伴う。
写真はソダン村で出くわした上棟式の様子である。伝統家屋の建設作業は男性たちが行うが、棟が持ち上がる上棟式は、男性のみならず周りにいる女性も儀礼に参加する。棟を持ち上げるのに合わせて、まるで自然の精霊たちの声を聞くような、独特の甲高い声を皆が発する。
神輿がそうであったように、自分たちよりも物理的に大きなものが共同体をつくる。棟上げの儀礼を見たとき、そう思わずにはいられなかった。人のために家屋があるというよりも、家屋のために人々が集まっているというように。家をつくる行為が、むしろ人々の紐帯になっている。
ちなみに、このスンバの家屋を紹介した展覧会が現在開催されている。神戸の竹中大工道具館で『南の島の家づくり』として12月2日までの展示だが、お近くの方は足をお運びいただければ、インドネシアをはじめとする東南アジア島嶼部の家づくりに集合的手仕事としての建築を感じていただけると思う。
現代の結(ゆい)
家づくりが共同体の紐帯となっている事例はもちろん日本にもある。例えば、茅葺屋根の葺き替えは共同作業で成り立っている。いわゆる結(ゆい)である。しかし、その結をいまの社会で維持するのはなかなか難しい。
建築が集合的手仕事であることは、現代でも変わりはない。ただし、設計者か施工者でなければ、基本的に私たちはその一員ではなく、建設プロセスは私たちの向こう側にあることが多い。
しかし、冒頭の藤森建築に参加する私たちは、現代版の結をしているとも言えなくはない。もちろん、かつてのような共同体の紐帯ではない。だが、私たちの向こう側にある建設を少しこちら側に引き戻す工夫ができれば、これまでとは別種の結が可能かもしれない。
また、そうした連帯の効果とは別に、建築の集合的手仕事に自分が少し参画することで、建物への親密度が生まれる、という効果があるように思う。
藤森建築の工事に参加すると、それがほんのわずかだったとしても、完成したとき、どこか少し自分のもののように感じる。建物の愛着は完成後に建物に触れていくことで培われる。しかし、完成前から建物に触っていると、建物が完成したときにすでに愛着が生まれているのである。
このコラムで以前、建物を愛でる意義について書いた。それは建物の持続性を高めることだと、そこでは述べた。同様に建設プロセスも一役買えるはずだ。もし仮に、集合的手仕事としての建築を、現代に生きる私たちの日常に少し引き入れることができるならば、人とのつながりのみならず、物とのつながりにも、きっと変化が生まれるに違いない。
【参考文献】
佐藤浩司監修『南の島の家づくり 東南アジア島嶼部の建築と生活』竹中大工道具館、2018年.