HAYASHI Lab.

IIS, the University of Tokyo
東京大学生産技術研究所
林憲吾研究室

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コラム「類人猿から考える都市」

林憲吾(東京大学生産技術研究所)

 

前回のコラムでは「都市とは何か」について私なりの見解を示した。都市は都市だけでは成り立たない存在。端的にはそれが私の回答である。

しかしもう少し踏み込んで、食料の外部依存性こそが、都市の本質ではなかろうかとも述べた。他者に何かを依存しながら生きているのが都市だとして、では何が根本的に都市に欠けているのか。それはおそらく食料だろう。

この定義に従うならば、都市のはじまりは、食料の外部依存のはじまりになる。だが、前回述べたように、どうもそのはじまりを遡ると、サバンナを二足歩行した人類にまで突き当たってしまう。そもそも人類は、食料の依存関係を構築する戦略を取った生き物なのではないか。

人類が類人猿と異なる点として、しばしば指摘されるのが食料を他者に分け与え、ともに食事をする習慣、すなわち共食である。二足歩行で手が自由になり、自分のための食料以上の量を抱えて運べるようになったことも、共食には有利に働いたとされる。人類の根源には食料をあげる/もらうの依存関係、つまりは都市がちらつくのである。

人類は生まれながらに都市なのではないか。その考えがずっと頭にあった。人類に最も近い類人猿から人類の都市性を考えてみたい。そんな欲求に駆られた。そんなことから、チンパンジーやボノボの研究をされている京都大学の山本真也さんに講義にお越しいただいたのである。なお、以下の記述は山本さんの講義を踏まえているが、誤った解釈をしていれば全て私に非がある。

チンパンジーと返礼

類人猿のなかでも、人類に最も近い存在がチンパンジーとボノボである。およそ600万年前にヒトの祖先と、チンパンジーとボノボの祖先は分岐し、およそ100万年前にチンパンジーとボノボの祖先がそれぞれ分岐したとされる。

山本さんは、道具利用や食料の分配、集団行動など、多岐にわたる観点からチンパンジーとボノボの特性、さらにそこから人類との境目を語ってくださった。ここでは都市の定義に深く関わる食料の分配を取り上げたい。

チンパンジーにしてもボノボにしても、食料を他の個体に分け与えないことはない。言い換えれば、他者に食料を依存することはあるようだ。ただし、その程度や在り方は人類とは異なり、さらにチンパンジーとボノボの間でも異なるという。

まず、チンパンジーは日常的には食料の分配をしないという。熱帯雨林の生活での日常的な食料は果実である。その果実はそれぞれが得て、基本的には分け与えないそうだ。

では、チンパンジーが分配するものは何か。それはハンティングによって時折獲得する肉だという。つまり特別な食料である。その分け方も平等ではない。狩猟に協力した個体や発情したメスなどに多く分配されるという。ギブ・アンド・テイクに近い関係を見てとることができる。

何かの代わりに食料を得る。あるいは食料の代わりに何かを得る。ただあげるのではなく返礼を期待する。分業や等価交換につながるこの性質は、外部依存を前提にした都市を成立させる上で不可欠なものである。これはチンパンジーにおける都市性といえるのかもしれない。

ただし、この性質はチンパンジーにはほとんど備わっていないとみるのが有力なようだ。たしかに肉の分配はその性質の現れにも思えるが、日常的な営みとはいえない。実験室の事例からも、利他的な行動をする代わりに相手から自分の利益になるようなことを返してもらう、という関係はチンパンジーでもなかなか成立しないという。

それに比べて人類はこの関係を容易に構築できる。自分が得た利益と同程度のものを返礼する。都市の成立に必須であるこの性質を、とりわけ人類は発達させたようだ。チンパンジーでは、日常的な果実ではなく稀少な資源の分配にその片鱗が現れたとすれば、もしかしたら、サバンナという厳しい環境に放り出された人類にとって、返礼を伴う依存関係が重要だったのかもしれない。

ボノボと贈与

他方、ボノボはチンパンジーと異なり果実を分け与えるという。メスを中心として手にした果実が他の個体にわたる。同じ熱帯雨林でも、ボノボはチンパンジーよりもさらに資源が豊かな環境に住んでいる。周囲には果実が豊富にあり、もらわなくても自分で採取できるにも関わらず、とりわけ劣位のものが一方的にもらうことがあるそうだ。

特にお返しがあるわけでもない。生存の危機というわけでもない。請われたら与える。果実の分配にとても寛容なのだそうだ。山本さんはそれを「おすそわけ」と呼んだが、まさに返礼なしの贈与といえよう。

必要でもないのに、食料を他者にもらうとはどういうことか。あげる/もらう。その関係を構築すること自体に何か社会的な意味があるのではないか、と山本さんは語る。非都市と都市のような関係を築くことには、単なる生存を超えて、集団の安定に何か寄与する面が本来的に備わっているのかもしれない。そんなことを考えさせる現象である。

日常的な食料である果実をボノボが分け与えるとすれば、他者から食料をもらう都市的な性質は、人類の専売特許ではない。しかも返礼がなくても都市のような存在を許容する性質を垣間見せる興味深い事例でもある。

しかし、とはいえやはり人類は、ボノボに見られる贈与の精神(といってよいかはわからないが)をより強く備えている。ボノボにしてもチンパンジーにしても、そもそも自発的に食料を分け与えることはないという。要求があってはじめて分配が成立する。それ対して、人類は相手を察して自発的に食料を差し出すことがある。自発的な利他行動は、それこそ人類の専売特許なようだ。

それができるのは、①他者への高い共感力、とくに相手の喜びを自分の喜びに感じる情動伝染②他者への施しを第三者が評価し、間接的に返礼がくる間接互恵性の存在、このふたつが重要だったのではないかという。他者への贈与をより積極化する、すなわち、あげる力を高めたのが人類といえようか。

贈与と返礼の二重精神?

食料の外部依存を成立させるには、もらう器量も必要だが、あげる気前も重要だろう。チンパンジーにちらついた返礼の精神と、ボノボよりも積極的な贈与の精神を兼ね備えた人類は、彼らよりもずっと食料を外部に依存する都市のような存在を生み出しやすかったに違いない。

したがって、人類の発展において都市を生み出すことは、やはり人類の根源的な戦略だったのではないだろうか、と思えてならない。自立よりも、ある種の依存関係を構築することが人類にとって不可欠だったのではないだろうか。

しかも、食料を得て何かを返す互恵関係だけではなく、たとえば家族内に見られるような返礼を期待しない贈与の両方を人類はおこなう。食料の分け与え方にも複数ある。そうした依存関係を巧みに組み合わせたからこそ熱帯雨林の外でも生き抜けたのかもしれない。

しかし近年の都市の状況、グローバルな依存関係を見る限り、それはむしろ私たちの首を絞めているようにみえる。地球という生きる環境そのものを破壊している側面がある。ただ、それでもなお人類の起源を考える限り、依存関係はやはり人類の光明なのではないか。

立ち戻るべきはどんな依存関係、どんな都市なのだろうか。答えを持ち合わせているわけではないが、都市の歴史にそのヒントを探りつづけたい。

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